人権活動に関して思うこと

人権活動に関して思うこと

先日、地域の教育委員会が主催して人権研究会というのがあったので、参加してきました。

正直に言って、時間の無駄になってしまったなと言う内容で、アンケートにも「まったく役に立たない」に丸を付けて帰ってきたのですが、否定するだけではまったく無価値なものになってしまうので、私なりに個人的な意見としてこういう風にすれば良いのではないかなと今考えていることを書いてみようかなと思いました。

なんで、時間の無駄に感じたのか。

この人権研究会(正式名称は異なります)に関しては、そもそも否定的な立場にいたということが大前提にありました。なので、なおのこと今回強く時間の無駄になったなと思ってしまったのだと思います。

今回「PTA・子ども会」が題材の分科会に参加したのですが、実はそもそもが私の所属してるPTAが当番校として指定されて、本来なら(?)私達が発表をしないといけなかったのですが、ボランティア制にPTAを移行したことコロナ禍で活動自体何も出来ていないことを理由にお断りをしたという経緯があります。ただ、個人的な過去の経験から人権問題はしっかりと取り組まないといけない問題という認識を持っていたので、時間の都合が付いたので参加させてもらいました。

司会進行は学校の先生がなさっていたのですが、これは司会進行のプロではないので、そこまでうまくするのは難しいだろうなと理解しています。なので、その部分は別にしたとしても、開催終了が4時30分の予定で告知されて、他の分科会が終わっていない状態で3時半には終了というのはどうなんだろうと。これも、司会進行がうまく回せず、質問や意見が自主的にはほぼ出なかったので、致し方がないというのも理解は出来るのですが、そもそも質問や意見が出ないという所に大きな問題があることを考えるべきだと思うのです。

あと、司会進行の方が「なかなかコロナ禍で活動もできなかったので、ご意見も無いとは思うのですが」という主旨のことを何度か話されていたのですが、それだったら参加された方だけでも議論できる内容を前もって考えておくべきだったのではないかなと。民間の研究会でこれをやったら苦情の嵐というかそういう状態だと思います。無料開催だったとしても、個人的には「二度と行かない」となるかと思います。(ちょっと厳し目ですいません)

まあ、この部分も司会進行の方がプロではないのが原因の一つですが、実行委員会も含めて事前に考えておくべき内容だったのではないかと思います。(実行委員には知り合いもいるので、この記事で嫌われちゃうかもしれませんが、意見として読んでいただければ嬉しいです。)

今回このようになったのは、やり方を前年踏襲でやってしまったからだと思います。そもそも、人権活動自体がこのコロナ禍でここまで大きく異なっているのですから、その活動を議論し合う研究会も異ならないと行けないはずです。前年踏襲でやってしまったから、個人的な意見なのかもしれませんが「ただの時間の無駄」になってしまうのだと思います。もちろん、教員の方が主体でされているようなので、開催までに内容を話し合う時間の確保が出来なかったりしたことが想像に難くないのですが、なんのためにやっているのかを考えると、そもそもそれならしない方が良いのではないかと思ってしまうので。このような研究会(勉強会)というものは意義が無いと、協力は得られにくいのではないかと思います。

先に伝えておきますが、私が今回参加した分科会の内容だけでの判断となります。この分科会以外にもいじめや学習差を無くす、地域問題など、多種多様に渡る分科会がありましたので、そちらに参加したら私個人としては非常に有意義な分科会になった可能性はあります。ただ、他の分科会にも共通する問題点があるのではないかと思いますので、その点も踏まえて書いていきたいと思います。

人権活動研究会に参加した人にしか知識や思考が反映されない

例えば、今回私の参加した分科会の内容が運が悪かった。内容さえ良ければ良かったのか?

というのが、実はわたしは過去に何回かこのような会に参加させて頂いて、非常にためになる会もありました。ですが、参加した後にふと思ったのが、参加した人(例えば私の学校からの参加者が私だけだったりする)しか知識や思考に反映されないなと。もちろん、私が他の人に話聞かせたら良いという話もあるのでしょうが、そんなに人脈も無いですし、広げることは少なくとも私は出来ませんでした。

また、こういう研究会は「リーダー研修」だからという意味合いで話をされる方もいらっしゃいますが、そもそも参加者が「リーダーになろうと思って参加している」のでしょうか?特に地域の自治会やPTAなどの人権部の役員になった人が輪番や充て職で参加している場合、どうなんでしょうか?人権部に立候補して参加している方もいらっしゃると思いますが、その方がどのくらいなのか、冷静に考えるべきだと思います。

その上で想像してみてください。自分に興味のない事柄の事項の研究会に参加して意義を感じなかった場合、どのような感情を持つでしょうか?少なくとも私は「時間の無駄だから二度と参加しない」になってしまいます。他の方で話し好きの方だったら悪評を広めることでしょう。(この投稿もそうなってしまうかもですが。。。)

また、今の時代に地域のリーダーとして活動すると言っても、人権啓蒙まで出来るのか?と。もちろん、地域活動をする方が人権をしっかりと守ることに貢献できれば良いのですが、地域活動に強制参加を義務付けたりしている地域に関しては、その意義はやはりないのではないかと思ってしまいます。

そもそも人権活動ってなんのためにするのか

個人的な意見でもしかしたら私が大きく間違っているのでかもしれませんが、今のやり方は人権活動を啓蒙する以上に衰退させてしまう活動になっているのではないかと思ってしまうので。

特に先述したような「活動への強制参加」などがまかり通っている時点で、人権が侵害されている事を認識すべきかと思います。人権とは、「すべての人間が人間として尊重され、自由であり、平等であり、差別されてはならないこと」だと私は認識しております。その中で、大事にされることは「自由・平等・差別されない」の3つが柱だと思います。もし、この私の考え方があっているとしたら、何かしらの活動に対して強制が発生するのは人権を守られていないことだと思うのです。本末転倒ではないかと。

とある学校の教頭先生に血相を変えて「人権活動を促進するのは国民の義務であり、PTAが必ず行わなければいけない活動だ」と言われた時に「人権とは何か?」をしっかりと考えるきっかけになりました。このような強制の考えが人権の大切さの啓蒙の逆効果になっているのではないかと私は思ってしまうのです。

PTA や地域活動の中で面倒と思われる活動

PTA 活動をしている、もしくは今までの活動の中でやりたくない活動のリストの中で上位に位置するのが「人権活動」ではないでしょうか?これは、統計を取ったわけではないので、根拠は薄いですが、概ね2021年の現状にあっているのではないでしょうか?

こうなってしまった理由の一つには、共働き家庭が増えてきた関係で可処分時間が少なくなってきて、多くの人が時間に対して余裕のある生活が出来なくなってきたことが大きな原因だと思っています。多くの人が「人権の大切さ」は理解しているのですが、自分たちの自由や時間を犠牲にまでして行う活動なのだろうかと考えるようになったのだと思います。また、意識するしないに関わらず、大多数が差別をされる側ではなく差別をする側であるということもあり、当事者意識が少ないのだと思います。冷静に分析すると、私はこれが合っているのではないかと思います。

だから「人権活動をしっかりすべき」という考えに関しては、私は一切否定しません。どちらかというとほぼ同意です。ただ、正しい活動だからという理由で強制させることは人権侵害である上に、人権活動を悪者化してしまっているのではないかと思うのです。

少し残念かもしれませんが、人は当事者にならないと問題や課題を認識しません。ちなみに私もそうです。子どもがいない時には子どものことをしっかりと考えていませんでした。多分、一般の方よりも子ども好きだったので子どもの問題などを考えていた意識はあるのですが、実際に娘たちの親になった瞬間にその重要性は一気に上がり、多くの問題や課題を考えるようになりました。

また人種差別問題に関しても、アメリカで起業して展示会などに行った時に明らかにアジア系への差別にあったことから人種差別には根深いものがあるのだなと思いました。もちろん、大多数が西海岸では人種差別をしません。西海岸は多くの人種の方が住んでいるのでそうだと思うのですが、白人がほとんどを占める地区ではやはりアジア系は特に元々が住んでいなかった種族として差別とは言わないまでも「普通の人」としては見られにくい地域になってしまうことは理解できます。駄目だと分かっていても「差別とは違いあるものを排除する文化」だからです。

まずは当事者意識を持つようにする活動が大事なのではないか

このような私の体験からすると人権活動は人権問題の当事者だったりする人権に対して問題や課題を感じている人が主体になってすべきなのではないかと思います。そして、当事者意識がない人に少なくなった可処分時間を使ってでも参加したほうが良いのではないかと思ってもらえるような活動をし参加してもらうことだと思うのです。

なので、クジで決まった人や輪番で回ってきた人がやれる活動ではないのではないかと思うのです。もちろん、講演などに参加するぐらいだったら良いのですが、活動主体になれというのは、何か本質とはずれているように感じるのです。人権とは幸せになるための「自由・平等・差別されない」が基本の三柱だとしたら、これからずれているのではないかと。

人権活動には今こそマーケティングの感覚が必要ではないか

では、人権活動するにはどうすべきかという事を個人的な意見として言わせて(書かせて?)もらうと、今からの地域活動などのものも含めて少なくなりつつある可処分時間を使ってもらえるかどうかという事を意識しないと行けないと思います。

エンターテインメント業界でよく言われる「可処分時間の奪い合い」の中で戦わ(?)ないといけないということです。それには、やはりマーケティングの知識や経験が必要になってくるのです。この現状を見ずに楽しようと考えると強制参加させるという方向に動くのだと思います。そして、今の状況になったのだろうなということが想像に難くありません。

となると本気で人権活動を啓蒙したいと思うのなら、真面目というか今までの踏襲的な活動では広げることは出来ないと思います。だからと言って、エンターテインメント的なふざけたりして注目を集めるわけではいけないので、非常に難しいマーケティングの能力が必要です。多分、これを実現できた人がビジネスをしたら最強のマーケッターになっていると思います。

ということで、これは予言的なものになりますが、若い人で人権活動をする人がいたら、この(マーケティングや可処分時間の)意識を持たせて実行して多くの人が集めることが出来れば最高(最強?)のマーケティング経験が出来ると思います。私達おじちゃんや年配者は、今までの固定概念を捨てて、本質を押さえつつ一緒に考えるべきなのだと思います。

やることを中心に置くのではなく、本質を考えるべき

また、昨今の役所系の人権活動に関して思うところは、人権活動の本質を考えて、今までの活動を数年おきに見直す仕組みを入れるべきだと思います。多分ですが、今回参加した活動も根本的なやり方は10年以上変わっていないのではないかと思うのです。内容は変わりますが、やり方やアプローチを下手すると30年近く変えていないのではないかと。それで今も成立するのはやはり無理があるのではないかと思うのです。

過去に活動をしていた人たちは新しいことをする人たちのバックアップに徹すること。先回りして問題が発生しそうなら、発生した時にリカバリーが出来るように動くことが大事なのだと思います。やってみないと問題になるかどうかも分かりません。

新しいことをする場合は、必然的に失敗も必要なのです。それを許容していかないと、地域活動や人権活動は広がっていかないと思います。

本当に人権活動が大事だと思うのなら、本質だけをしっかりと押さえて新しい活動に変革しないといけない時期に来ているのだと思います。

挨拶について

挨拶について

今朝、ふと子どもたちの学校の行き帰りの挨拶について話題になったので、ちょっと個人的な意見を書いてみることにした。

挨拶はコミュニケーションの最初の一歩にはなる

学校の登下校時に子どもたちが挨拶をスクールガードさんにしない子がいるという話で、スクールガードさんから指摘が出ていたことを配布プリントに書くべきかどうかということで議論になったんです。

私の意見としては、「挨拶はすべきだけど、強要すべきものではない」というスタンス。というのも、子どもによっては思春期で挨拶が恥ずかしがる子もいるはず。そういう心を考えずに「挨拶はすべきだから強要すべき」となるのは、オカシイよなと。

子どもや大人が挨拶をしないのには、何かしらの理由があるはず。

私の知っている方(高齢の方)で、地域のいざこざがあって、ある人(こちらも高齢の方)に挨拶しても無視されるという事があるように、子どもなりに理由があるはず。まあ、個人的には照れなどが子どもの主な原因だろうと思うから、照れずにやれ!というのが同調圧力的でオカシイと思うんですよね。

年齢の高い人には無条件で挨拶をしないといけない?

スクールガードなどからこういう話が出る時は、大きく2つあって、「最近、思春期の子が挨拶が少なくなったね」というパターンと「スクールガードに立ってやっているの挨拶をしないとは何事だ!」というパターン。

ちょっと極端にしましたけど、大きく分けるとこの2つになるんだよね。で、結構多いのは先のパターンで、自分の感情として寂しいけど仕方ないよねという方が大半です。そのうえで、挨拶をして欲しいなという意見を聞くことがあります。その場合は、私も「そうですね」となるのですが、「挨拶すら出来んのか!」という方には、「それは、どうなんでしょうか?」となってしまう。だから、ある一定数の方を私は敵にしてしまうのでしょうけど。

私の考えとしては、年齢の高い低いに関わらず、挨拶をしたほうが良いなと判断した人に挨拶をしたらそれで良いのではないかと思っています。もし、挨拶をしても返してくれないのだったら、挨拶する対象として思われていないのだから仕方がない。自分に何かしらの原因があるのかもと思うようにしています。

そもそも、笑顔で挨拶をされていて、影では陰口をめっちゃ言われるぐらいなら挨拶されないほうがむしろスッキリするなと。www

実際、私も色々な人が知り合いが増えた関係で、覚えていない人がいたりして、先日挨拶したのに、気付いてもらえなかったと言われることが多々あります。これって、申し訳ないと思うんですが、なかなか数回しかあっていない人は覚えられないんです。もちろん、覚えられる人もいると思いますけど、私はゴメンナサイ、無理です。

もし、子どもが道端で挨拶をしてくれていて、その大人が気が付かなくて、傷つけていることもあると思うんですよ。なので、挨拶をして挨拶されなくても、「まあ、良いか」と私は思うようにしています。もしくは、「何か私の方でやっちゃったかな?機嫌が悪いのかな?照れているのかな?」ぐらいで。

挨拶を返してくれた事が嬉しくなる

挨拶をする立場としては挨拶を返してくれることを期待するのは仕方のない心理だと思うのですが、「挨拶をしてやっている」みたいな気持ちを持たなければ、挨拶を返してもらえなくても、返ってきたら単純に嬉しいなと思えると思うんですよね。

先に書きましたけど、「挨拶ってコミュニケーションの最初の一歩にはなる」という考えを持っていて、これはどの世代に対しても成り立つと思っているんです。年齢の高い人向けや年齢の低い人向けに関わらずですね。別に年齢が高ければ低い方からしなくちゃいけないとかいう考えは無くて、気がついた方からすればいいし、挨拶をされなかったら、相手に原因があるのではなくてこちら側に原因があると考えると、変に感情的になることもないんですよね。

実際、以前にあったのですが、地域の不登校の子に挨拶をしていて恥ずかしそうに首をちょこっと降るだけだった子が、比較的大きな声で「こんにちは」って言ってくれた時はマジで涙が出そうになりました。

挨拶って、「言葉のキャッチボール」っていうじゃないですか。キャッチボールってお互いにやる気がなければやり取りにならないんですよ。それは、投げる人は受け取る人が受け取ってくれる想定で投げますけど、キャッチボールする気のない人に投げても受け取りすらしてくれないはずなんです。それを理解していれば、たとえスクールガードだったとしても、挨拶の返事を返ってこなくても挨拶をし続ければ返してくれるようになるかもしれないし、返ってこないかもしれない。ただ、返してくれる子どもたちのために、みんなに挨拶をすればいいじゃないかなと思っています。

もちろん、これは私個人の考えであり、罰則をもってでも年配の人が挨拶をしてきたら必ず返さないといけないというルールを地域によっては作っても良いと思います。ただ、私はそういう地域では地域のために決して活動はしないなと。

PTAや自治会に加入するメリット

PTAや自治会に加入するメリット

昨日、PTA適正化オンラインディスカッションの中で自分が拾っておきながら、上手く答えられなかったような気がした質問があって、久しぶりになかなか寝付けなかった。

「加入メリットを是非!」

これは、PTAだけでなくて、自治会に関しても言えることだと思うんですよね。

古い言い方と言うか、一般的な言い方をすると、「子どものため」「地域のため」という説明をすることが多い気がするんですが、これってメリットではなくて、どちらかというと義務?的な感じがするので、違うなと。

「子どもの友達の保護者間で仲良くなれますよ」とか、「地域で災害にあった時に近所付き合いがあれお互い確認して安心ですよ」とかもあるんだけど、そもそも、知り合いがすでにある程度いたらメリットではない。それこそ、転勤族にはメリットになるかもだけど、絶対的メリットではない。

そもそも、PTAや自治会って「お金を払ってまで活動(仕事)をする」という、拝金主義者からするとドMな活動なんですよね。

んで、ふと思ったのが、最近の堀江貴文さんや西野さんのオンラインサロンってお金を払って皆で活動をしているなと思ったんですよ。これ、有名人とちょっとお知り合いになれるとか話ができると思って自己満足や自己優越で参加する人も少なくないので、若干ファンクラブ要素があると思うんですけど、これに近いのかなと思ったり思わなかったり。やはり、少し違うなと。ちょっと近いけど。

て、考えていたら岩竹 美加子さんが書かれているように「国家装置」としてPTAも自治会も組み込まれていたものなので、私の頭の中で一部思考停止してしまっている部分があるのではないかなと思ってきました。

100%まっさらに考えてみたら、オンラインパネルディスカッションでも話したとおりやっぱり「メリットは無い」が基本なんだろうなと。

多分、私も含めて多くの現存の大人がボランティアの本質が少しずれているところがあると、最近常々思っているんですよね。ボランティアって『人に言われてすることじゃなくて、自ら動くもの』だと以前、「神戸希望の明かり」などでご一緒した堀内正美さんに言われて、腹落ちしたことがあるんですけど、やっぱりその感覚なのかなと。

メリットと言えば、他者の評価とか損得が絡んでくるんだけど、自発的な活動にはその部分がなくても出来ることなんですよね。私が自分の娘達やその友達のために活動しようと思うところは、まさに他者の評価とか別に良いんですよね。自分の出来ることをやりたい。上から目線的な言葉になってしまうかもですが、やってあげたい。

また、自分が始めたことですけど、PTAオンラインパネルディスカッションもメリットって特に無いんですよね。ただ、育メン修行中さんと一緒で「適正化で苦しんでいる人の何かしらの助けや参考になれば」という気持ちだけなんですよね。

どちらかというと、多分影で「あいつ良いカッコしいだ!」とか「何正義感ぶって」とか、中学生あるあるな「真面目はカッコ悪い」的な批判の的になっているんだろうなと言うデメリットの方が大きいのだけど、自分の子どもたちとその友達のために出来ることの些細な一つだと思うので、やっているというのが自分的には現実なんですよね。

そういう点で、「メリットが無ければやりません」という方は非会員になられたほうが良いと思うんですよね。パネルディスカッションの打ち合わせの際に話していたんですけど、否定派がいると活動がしにくくなるので、どちらかと言うといないほうが良いと。いなくなって、楽しく活動できるようになったと。

あと、Twitterでよく見かける、「自分は直接校長や教育委員会に物申せるからPTAに加入する必要がない」と書かれている方は入らなくて良いと思うんですよね。実は私も校長や教育長に直接携帯で電話をかけることが出来る関係がありますので、その点で言うとそういう人にとって私こそPTAに加入する必要はないのかもしれませんが、私は参加して活動をした方が子どものためになるのではないかと思っているからやっているんです。

まあ、そもそもですが、このメリット論をする際には、適正化されてエントリー制になったPTAが前提という話です。強制入会で、意味のわからない活動を強いられるPTAは、やっぱりデメリットしか無いのかもと思います。

ちなみに、私は強制入会状態のまま、会長を辞したという自責の念と言うかそういうので、PTA適正化オンラインパネルディスカッションをしている一部はあります。

まだ、少しモヤモヤしていますが、そんな感じです。

あ!もしかして、損得なしに人を愛するのと似ているのかも?いや、やっぱり違うな。爆

PTAと自治会の本来の姿

色々なところで、いろいろな議論が出ている問題だと思うのですが、私の現時点での考え方を書いてみたいと思います。

ちなみに2019年12月のWordCampOsakaのセッションで WordPress と絡めて話をさせてもらっていて、これが基本的な私の根本的な考え方です。

45分もあるので、ご興味がある方は見ていただければと。1.5倍などでも最近は見れるので、良いですよね。

基本はボランティアだよね

私の考えは成り立ちとか、そういう事を言い出すと新しい人達が入りにくくなるというのが、こういう任意団体に関して思う意見です。

基本理念として、どうしてそういう団体を作っているかということです。私の知識では以下だと思います。

  • PTA => 学校に通う子どもたちのための先生と保護者の団体
  • 自治会 => 地域の活動を住む人達でより良くする団体

両方とも、場所(地域や学校)に関わる団体なので、ついついその場所に所属する人たちを強制的に入るようになる仕組みを作ってしまった過去があります。今までは、多くの人が中流階級で、ある意味平等で、地域の地主や金持ち以外はある程度の暇もあり、活動が出来たという実態があります。意外と20年ぐらい前までは違和感なく出来ていたんですよね。

あと、地主や金持ちが幅を利かせていて、その人達が主になって動くように行政が仕向けて、一般の地域の人に圧力をかけて、活動に参加させるようにしていった経緯があります。日本には村八分という言葉があるように、上の人間の言うことを聞かないと差別してその村では生きていけなくするようなことを平気で行ってきました。良い悪いは別として。その風土は残念ですが、現在の日本でも残っていると思います。もちろん、無い所も増えてはいますが。

なので、社会をアップデートできていない老人たちは、PTA会長がその小学校の決定権や発言権があり、その一言で色々と多くの人が付いてくると思っている傾向があります。

でも、今PTAに関わってPTA会長になった人なら分かると思いますが、影響力なんて殆どありません。多くの保護者がその地域に関わらず、他の地域に働きに行く人が多い地区は特にそうです。そうなると、会長という名前だけ偉そうな只の人です。しかも、責任だけ大きくなってしまう。なので、会長のなり手は少ないのも事実です。

少し話がずれましたが、まあ、ボランティアなんですよ。ボランティアに上下関係を作る時点で今の時代には合わないというかナンセンスなんですよね。

批判覚悟で言いますが、今までのPTAや自治会はボランティアの精神って基本的に無いんですよね。どちらかというと、「やってやっている」思想なんです。

本来の目的とボランティア精神でやるべき

なので、組織的に現在の多様性の社会や家族構成では、強制的に入るというような理解が出来るはずがないんです。それなのに、100%加入などを言い続ける人たちがいます。

これも、批判覚悟で言いますが、そういう人たちって、やっぱり「やってやっている」思想が強くて、上から目線なんですよね。本来の目標ではなくて、組織の存続やOB達を中心に考えてしまう。

いろんな活動をする時に思うのですが、本来の目的を忘れると大きく道を逸れてしまうんですよね。そして、不幸になっていくという。なんで、子どもたちのために行う活動であれば、それを主軸に考えるべきなんですよね。なので、それ以外の活動に関して、地域にお世話になっているから行うべき活動というのは何かずれている気がします。

そもそも、地域の活動もボランティアの精神で行っていれば、「お世話になっているからやるべき」などという、上から目線の考えは出てこないはずなんです。

だって、被災地支援に行くボランティアの人達が、復興したら支援された人たちがなにかするべきだという議論や考えは起こらないと思うんです。そんなボランティアはイヤラシイと思いませんか?

とある地域でPTA改革をしていたら、地域の人が学校に迫って「PTAが勝手にするなら地域は学校の協力をしない」と脅迫になりかねない脅しを平気でする自治会の方もいるという始末。学校の校長先生もそれは困りますよね。

もちろん、地域と学校が子どもを育てる面もありますが、まずは保護者と子どもたちが絆を作れる環境を地域は作るお手伝いをすべきなんだと思うんです。そうなると保護者の負担になる活動などは、負担のない参加方法を地域の方が模索すべきなのですが、前年踏襲の思考停止している方々では出来ないようなんです。もちろん、出来ている地域もあります。私もよく知っていますので。ただ、出来ていない地域が田舎では多めかなと。

PTAももちろんそうですが、新しい考え方も受け入れつつ、今できることをできる範囲でするべきなんですよね。

20年で以下のように家族の形が変わってきているのです。

資料出所
厚生労働省「厚生労働白書」、内閣府「男女共同参画白書」、総務省「労働力調査特別調査」、総務省「労働力調査(詳細集計)」

専業主婦世帯と共働き世帯 1980年~2018年

もう、変えないと行けない時期になっていることを上のグラフを見て実感してもらえないとね。しかも、学校の働き方改革を言われてるタイミングで、地域活動に学校の先生がもっと手伝うべきだというか言うのは時代遅れというか時代錯誤も甚だしいとしか言いようがないんですよね。

ただ、社会情報や社会情勢のアップデートが出来ていない大人が思ったよりも多くいますので、アップデートして欲しいなと。ハードウェアはアップデートが難しいですけど、誰でも情報はアップデートできるはずなんですよね。